Re^2 で
> 意見の相違があるからそれに物申している、なんて事まで頭から駄目だと否定されたら > 自分の意見など全く言えなくなってしまいますわな。
とありましたが、これこそがリーダーの『リーダー』たる所以だと、僕は勝手ながら思っています。
RTねぎぴいまんずの活躍ぶりは『昔のお話』に書いてあるように輝かしい (微笑ましい) ものがあると思いますが (笑)。 チームとして纏めておられれば当然、見解の相違など日常茶飯事であったと思います。
此処で何が素晴らしいかというのを (僕なりに) 以下に示します。
まず、所謂『仲良しごっこ』にありがちな、 『同じチーム員なんだから、みんなで同じ意見』 『リーダーがああ言ってるから合わせとこう』 といった建前的な体裁を整える為だけに安易に同意することなく、真剣に、対等に意見をぶつけることができたことです。
中には解釈の違いに留まらず、真っ向からの反対意見もあったと思います。 それでも、『論争』はあっても『いさかい』『喧嘩』があったとは聞いていません。
チーム員どうし、お互いに自分の理論を立証し、時には相手の理論の反証を探したり、ハズレパーツを田んぼに投げたりもしたでしょう。 それでも、そうしなければ得られなかった見解ってのがあるんですよね。 そうでなければあれだけのコンテンツは書けないと思います。
これで何が凄いかって、『今現在での自分の理論』というスタンスで公開しておられ、もし後になって矛盾や書き直す必要を感じた時には躊躇無く書き改められている点です。 スクーター改造の『トルクカム (初級編)』なんかモロ書いてますよね。 『(以前の項目) の内容は全て忘れてくださいませ』って。
これはなかなかできることではないと思います。
【誰かが或るマシンを或る手法でチューニングし、トップの成績を出した】 ↓ 【みんな同じマシンを駆り、同じチューニングを施すべき】 ↓ 【みんなで同じタイム】
こんなことでは、例え全員が 1/32 mile を 3秒00 で走れても面白くも何ともない筈です。 というか競走ですらありません (笑)。
定常状態というのは安定どころか衰退すると言うのは、『新しいことが生まれてこないから』に他なりません。
『論争』で思い出しましたが、 アルバート・アインシュタインとニールス・ボーアは学会でこそ論争を繰り広げていたものの、生涯の友であったといいます。 アインシュタイン氏の『神はサイコロ遊びをしない』という台詞は有名ですね。
そもそも量子力学の黎明期にあのような活発な議論が無ければ、2009年の今、1Gbps などという通信速度は達成され得るはずもなかったのに、 ただ恩恵 (そもそもネット回線が成り立つこと) を享受するだけで、自己顕示欲の赴くままに人を貶すことしかできないのは893のイチャモンのような気もします。
此処まで長文書いたのでもう言わせていただきます。 『多数決』は、数に物を言わせているとは言え『一つの意見を採択する』ためには合理的だと思うんですよ。 これが『全会一致』になってしまうと、国家の存続さえ危うくなります。 盲目的になり、小さな矛盾に気が付かないまま破滅へのカウントダウン、みたいなやつです。
小学校のとき、学級会議で26対1になっても反対意見を出した僕だから言えるのかも知れません (笑)。 でも『こんな反対意見もあると知ってて、その上で僕らはこう結論付ける』というのは全会一致とは意味が全く異なるものです。
SS でタイムを出してる人の影からしかものを言えない『スネ夫くん』なんかに負けちゃ駄目です! 大丈夫とは思っていますが^^
ではでは本当に長文、駄文失礼しました。
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